みんなで読む哲学入門

Ph.Dが講師の市民講座(上野ゼミ)

ルソー『人間不平等起源論』をめぐる注釈的対話:第2回

「みんなで読む哲学入門」2021年冬期は、上野大樹講師といっしょに18世紀フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)の『人間不平等起源論』を読み進めています。ゼミナールでのディスカッションを踏まえつつ、そこでの議論を発展させた講師と受講生のあいだの「対話篇」を一部のみ抜粋してお届けします。ゼミの様子の一端が垣間見れるかと思います。詳細は、ぜひ実際に講座をご受講いただき体験してください。→お申込み

 

                                文責:上野大樹

 

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ジャン=ジャック・ルソー

 

 

パラダイムは「縦」の関係

受講者A: ゼミではルソーの政治思想を理解するうえで重要なコンテクストとして、「自然法学」というものが重要だというお話が出てきました。その際に、ルソーの研究史のなかでこれまでどういった思想の系譜が重視されてきたか、従来の解釈にたいして「公民的人文主義」や「共和主義」の解釈が新しく提起されてきたといったお話もありましたが、駆け足だったので順を追って説明いただけますか?


上野大樹: 市民講座の輪読で先行研究などのマニアックな議論にあまり立ち入るのもはばかられるので、こちらで必要に応じて補足できればと思います。

まずコンテクスト主義(文脈主義)について簡単に復習しておくと、コンテクストは一つには「パラダイム」として機能しているということをみておきました。「範列的(paradigmatic)」と対になる形容詞は覚えているでしょうか。


受講者A: 「統語的(syntagmatic)」だったかと思います。


上野: はい、その通りです。文章は文から成っており、文は単語から成っているわけですが、単純化すれば、単語と単語を適切に配列して結びつけ、単語の集合としての文が“make sense”(意味を成す)な状態になるためのルール、決まりというものがあります。西洋の言語では、「てにをは」以上に「語順」が重要だというお話もしました。order / ordreは「順番」を意味すると同時に「秩序」をも意味するということでした。


受講者A: それがシンタックスの内実ということですね。


上野: はい。syntagmaticの形容詞形は厳密にはsyntagm(連辞)ですが、syntaxもほぼ同内容です。日本語にすれば、研究分野としては統語論・統辞論とか、構文論などと訳される文法の一部門です。


受講者A: 「横」のつながりをコントロールする仕組み、ということでしたよね。単語と単語がどのようにチェーン(鎖)状に繋がっていくのか、その繋げ方のルールというお話だったと思います。そうなると、パラダイムのほうは「縦」の関係、という話だったでしょうか?


上野: その通りですね。「縦」ないしは「横並び」の関係です。重要なのは、ことばを発話したり書いたりしていくときに、それ(パロール発話行為)は基本的に単語が継起していく「線形」(linear)的な「横」の流れであって、「縦」の関係は直接にはそこに現れない、という点です。そして、構造主義言語学の祖であるフェルディナンド・ソシュール記号学によれば、個々の単語はほかの単語たちとの相対的な関係によってはじめて意味が定まります。ラングは「差異のシステム」であって、シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の対応関係や、シニフィエの分節化はシニフィアンの分節化に大きく依存するという意味で、「言語の恣意性」が強調されることになります。あるパロールにおいて発話されている記号の意味内容は、そのパロールとは並行関係にあるような別の記号との相対関係において、はじめて意味が規定されてくる。

だから、単語の横の連なりであるテクストをいくらじっと眺めても、そこにパラダイムは直接に現れてはこないわけです。そこにあるテクストや単語といわばパラレル(並列)な関係にある、べつのテクストや単語の世界に目を向ける必要が出てくるのです。


受講者A: それが、縦糸と横糸の連なりのなかで意味がより明確に浮かび上がってくるというイメージなのですね。


上野: 一点、前回は触れ忘れましたが、横糸を編んでいくルール、つまり統語や構文と呼ばれるものは時間的には長期にわたって維持されるのに対して、縦糸の並びや編まれ方は統語的構造とくらべて歴史的に可変的だというのもポイントです。同一の語やテクストだったとしても、それがその背後で何と並列的に並べられているのか、そこが変わってくることで、その単語やテクストが意味する内容も変化することになるのです。

語のレベルでいえば、civil government / gouvernement civil という語句に含まれるcivilという形容詞をどう訳すか。「市民的」か「政治的」か「国家的」かetc. という話を、一例として思い出していただければと思います。構造主義言語学でいうと、範列的な選択関係 (paradigmatic relation) が背後に潜在しているなかで、実際に選択された語の意味が規定されてくる()。なので、相互に交換可能な代入関係・置き換え関係のなかでも、特に「対」になるような密接な連関語を特定することが重要になってきます。この場合、civilは「国家」との対比で「市民的」という意味になるのではなく、ecclesiastic(al)と対になって、政治的ないし国家的と訳されるべき意味をもつことになります。


言連鎖の中の一点において交換可能な諸要素の総体を「範列paradigme」という。たとえば、Le magasin est fermé. という文のmagasinに代わり得るrestaurant, musée などは範列をなす。【ロワイヤル仏和中辞典より】)


やや複雑になりましたが、言語学者バンヴェニストの言い方でまとめれば、「ディスクール=テクスト+コンテクスト」と定式化することができそうです。


参考文献】土田 知則・神郡 悦子・伊藤 直哉『現代文学理論――テクスト・読み・世界』(新曜社、1996年)。

 

パラダイムを書き換えようとするルソー

受講者A: では、そういったパラダイム=文脈として、ルソーを読む際に自然法学というものが大切だというのはどういうことでしょうか?


上野: 一つには、先行する自然法学の伝統のなかで問題とされてきたこと、つまり自然法思想において重視されてきた問いかけや命題(さらにはそれらを構成する枢要な語をどう定義するかという問題)に対するレスポンスとして、ルソーの政治的テクストを読むことができるということです。そして、それは読み手が勝手にそう解釈するというよりは、ルソー自身がかなり自覚的に、そういったテクスト群によって構成されている問いに応答する形でテクストを実際に書いている、ということを意味します。


受講者A: たしかに実際にテクストを読んでいくと、自然法学者の名前も出てきました。それに、そのことを意識しながら前後を読んでみると、もしかしたらこの記述は、この箇所では明示的には言及されていないそうした特定の思想家への応答や批判として書かれているのではないか、といったふうに読みの可能性も広がっていきました。


上野: そうなんですね。啓蒙思想を読んでいく際には多かれ少なかれあることですが、ルソーの場合に難しいのは、第一にそれが明示されていないことがしばしば見受けられるということです。ルソーがどのような広義の論争状況の中である発話行為をし、どういった問題設定にたいして応答しようとしていたのか? そのメッセージはどういった読者にたいして発せられていたのか? また著者の意図はその通りにターゲットに届いたのか、まったく想定外の反応や意図しなかった読者にメッセージが誤配されることはなかったのか? こういったことを考えるためにも、テクストの置かれたコンテクスト(文脈)を歴史的に復元するという困難な作業がこちら側に要求されてくる、そういった部分があると思います。


受講者A: その一つが自然法学ということですね。


上野: はい、そういってよいと思います。第二に難しいのは、ルソーは自らのテクストを通して応答し批判しようとするコンテクストであるパラダイム――それは一連の問いから構成されるわけですが――そのものを再構成したり改変したりしようとする傾向の強い思想家だという点です。いわば、自らのテクスト執筆という発話行為を通してコンテクスト自体に働きかけてそれを書き換えようとする、ある種の微視的なパラダイムチェンジが、ルソーの場合は同時に遂行されていると言ってよいかもしれません。
そうなると、単純に「(先行する)問い → (ルソーの)答え」という図式、さらには「伝統的な問いに対するルソーの革新的な答え」という図式にさえ収まらないことを、ルソーはやっていることになります。答えるべき「問い」それ自体を遡行的に書き換えていくという、だいぶアクロバティックにも見える言語活動を行なっているわけです。

 

『人間不平等起源論』の「献辞」と自然法学との関係

上野: 以上を踏まえて自然法学の中身にもう少し入っていきたいと思います。


受講者A: ゼミで出てきた人物としては、グロティウス、プーフェンドルフ、バルベラック、ビュルラマキといった法学者たちの名前が挙がっていました。ホッブズやロックといったビッグネームとくらべると一般には無名ですよね。ただ、グロティウスは「国際法の父」として名前は比較的よく知られているようにも思います。


上野: そうですね。最近では、プーフェンドルフとバルベラックの重要なテキストも邦訳が出て、日本語でアクセスできるようになりました。京都大学学術出版会の「近代社会思想コレクション」というシリーズに収められています。この講座では、基本は文庫本のような安価なものから輪読文献を選んでいるのでこれらを取り上げるのは少し難しいかもしれませんが、こういった地道でたいへん労力のかかる訳業の積み重ねが日本の学術の基礎体力を養っていくことにもつながるはずなので、その重要性をここで指摘しておきたいと思います。

自分で購入するには高価すぎるかもしれませんが、たとえば地域の図書館などで購入依頼をしていただいたりすれば、それを通じて日本の学問に間接的に寄与することにも繋がっていくのではないかと感じています。


受講者A: 早速やってみたいと思います。


上野: 前回、「献辞」のコンテクストと「本文」のコンテクストというお話をしました。人によって様々な感想がありましたが、最初の読後感としては本文のほうが抽象的・理論的で、歴史的な話に思える部分もどうもルソーの想像力がぶっ飛んでいて雲をつかむような話だと。それと比べると、献辞のほうが多少具体的な感じがして入りやすいという感想もありました。


受講者A: 私も似たような印象でした。講談社学術文庫の訳では、冒頭のジュネーヴ共和国への献辞は難解なので、いったん読み飛ばして本文から入ることを勧められていましたが、逆に本文のほうが観念的・抽象的で、とっつきにくいと最初は感じました。
ただ、ゼミで献辞部分に関する解説を聞いてみたら、だいぶ具体的で個別的な当時の文脈を踏まえないと献辞の内容を誤解してしまう可能性があるということが分かり、具体的だからこそかえって当時の文脈抜きで読んでいって的を外した理解になる恐れがあるなとも感じました。その意味では、本編のほうが抽象的な分、逆にそういった当時の細かなコンテクストに精通していなくても一つの普遍的な理論として読める、という感じです。


上野: あのとき話になったのは、そうしたコンテクストを見ないと献辞は下手をすれば非民主主義的なテクストにも見えてくる、ということでした。つまり、一見するとルソーは寡頭制化した共和国の支配層におもねり、逆に急進的な民主派を批判していて、民主主義の父というイメージからはだいぶ齟齬があるようにも思えてくるわけです。

 

受講者A: そのときの文脈を踏まえないとそうなってしまうわけですね。


上野: 実際には、あるべきジュネーヴ共和国の姿を描写し、そのなかでの統治者の理想形を描き出すことによって、現実の寡頭支配を強烈に皮肉っている。つまり実際のジュネーヴが本来の共和政の理想からどれだけ乖離してしまっているのかを人々に気づかせ、反共和主義的な統治エリートがジュネーヴの建国理念をいかに裏切っているか、この点を際立たせるという効果をもったわけです。こういった点は、テクストをいくらよく読んでみても直接的に書かれてはいません。コンテクストのなかでテクストを位置づけて読むことによって、はじめてその文章が当時どういった意味をもっていたのか、どんなメッセージ性を帯びていたのかが見えてくるのです。


受講者A: かつての解釈では、ジュネーヴを離れて久しいルソーが祖国の政治情勢をほとんど理解しておらず、そのせいで小評議会の統治者たちを共和政の擁護者と勘違いして賛美してしまったのだ、という見方もあったのでしたよね。これも適切なコンテクストに置いて見てみないと、その発話行為の意味や意図を適切に理解することはできない、という例として挙げられていたのだと思います。


上野: ありがとうございます。実際には、ルソーはフランスにいるあいだも断続的に祖国の情勢に関心をもって情報収集を行なっており、小評議会による寡頭支配という実態に関しては十分に精通していたと思われます。それを踏まえると、献辞の統治者に対するメッセージは、とても字義通りには受けとれない、たぶんにアイロニカルな発話行為だったとみなすべきでしょう。

もちろん、ルソーはあまりに露骨な批判を避けることによって、自らの身の安全や祖国での政治的立場が危うくならないように慎重を期してはいるわけです。スピノザやヒュームの場合と同じく、結果的にその戦術が成功したとはあまり言えませんが。


受講者A: そのお話で、ビュルラマキという自然法学者の名前にも言及されていましたね。


上野: はい。その点は、当時のジュネーヴ共和国の文脈で自然法学というものがどういう役割を果たしたのかという点にも関連してきます。この点は、あとでお話ししようと思っていたルソー政治哲学研究の金字塔、ロベール・ドラテの古典的研究にたいして、1997年にヘレナ・ローゼンブラットというコンテクスト主義の思想史研究者が新たに打ち出した重要なポイントなのですが、やや錯綜した話になるので、ドラテのルソー解釈の概要をお話してからのほうがよいかもしれません (Helena Rosenblatt, Rousseau and Geneva: From the First Discourse to the Social Contract, 1749-1762, (Cambridge: Cambiridge University Press, 1997).)。


【参考文献】河合清隆『ルソーとジュネーヴ共和国――人民主権論の成立』(名古屋大学出版会、2007年)。

 

『人間不平等起源論』の「本文」と自然法学との関係


受講者A: むしろ献辞のあとの本文を読む上で、まずは自然法学派の議論が重要な前提になってくるという話でしたでしょうか。それが『社会契約論』の立論にもつながってくるということだったかと思いますが。


上野: そう考えてもらってよいかと思います。ディスカッションの際に、教科書的には自然法学と社会契約説の流れのなかでルソーが登場してくるのに、実際にルソーを読んでみたら自然法学派にかなり批判的で、これはどういうことなのかといぶかったという感想もありました。『社会契約論』を読んでも、同じような感想を抱く人が多いのではないでしょうか。


受講者A: はい。意外なことにグロティウスに対してかなり痛烈なコメントがあったように記憶しています。そのドラテという研究者は、どういった解釈なのでしょうか?


上野: 一言でいえば、ルソーの政治思想を自然法学との関係のなかに詳細に位置づけ直して、体系的な解釈を打ち出したというのが、ドラテの大著『ルソーとその時代の政治学』の最大の貢献だと思います。やや端折ってまとめると、ある大思想家が先行思想家たちを口を極めて批判するのは、その相手が批判するに値する重要な議論を展開しているからであって、論駁するに値しないと考えればそもそも取り上げることもないだろう。ルソーの場合も、グロティウスやプーフェンドルフといった自然法学者たちの議論と正面から格闘し、それに内在的な批判を加えることによって、自らの政治哲学を鍛え上げたのだ、ということになります。


受講者A: それは言われてみればそうですね。


上野: だから、たしかにルソーは自然法学派を詳細に批判しているけれども、それは裏を返せば、自然法学派の遺産の上に自らの議論を構築したということを意味しているわけです。

さらにドラテは、いわば引いた目線で眺めてみれば、グロティウスらに対するルソーの批判はやや公平を欠いており、自らの政治哲学が自然法学派が蓄積してきた議論に多くを負っているということをより明示的に述べるべきであった、とも言っています。


受講者A: そのドラテの研究によって、自然法学の流れのなかでルソーがこれを継承し発展させた、という見方が定着していったということなのでしょうか。これに対して、近年は自然法学の伝統よりも共和主義の流れを重視してルソーの政治哲学をとらえる解釈が出現してきた、というお話になるのでしょうか。


上野: そうですね。ただ、近世共和主義やシヴィックパラダイムからのルソー解釈という流れにいくまえに、次世代のルソー研究者であるローゼンブラットの解釈というのは、ルソーと先行する自然法学者の関係をあらためて見直そうとしたものでもあった、という点を指摘しておきたいと思います。


受講者A: それはどういうことでしょうか?


上野: これも単純化していえば、ルソーの自然法学派批判をいったんまともに受け止めてみよう、という話だと理解していいかと思います。つまり、ルソーの政治思想は、先行する自然法学者の考えの単なる延長にあるのではなくて、ルソーがそれだけ批判に注力したのにはそれ相応の理由があるのではないか、という解釈です。


受講者A: ドラテはそういったルソーの批判をまともに取り合わなかった、ということなのでしょうか?


上野: いいえ。たとえばプーフェンドルフたちが重視した人間の本性的な社交性、つまり自然状態において人間はもともと社交的な存在であるという前提に対してルソーがくわえた体系的な批判の内実を、ドラテは詳細に分析しています。いくつかの点で、ルソーはプーフェンドルフらの自然法思想から大幅なテイクオフを成し遂げているという点を、ドラテは認めています。


【参考文献】ロベール・ドラテ、西嶋法友(訳)『ルソーとその時代の政治学』(九州大学出版会、1986年)。
【参考文献】ロベール・ドラテ、田中治男(訳)『ルソーの合理主義』(木鐸社、1979年)。

 

ルソー政治哲学の解釈史――ドラテからローゼンブラットへ


受講者A: では、ドラテとそのローゼンブラットの解釈のあいだの違いはどこにあるのでしょうか?


上野: 大きいと思うのは、ドラテの場合やはり自然法の理論は近代的な政治哲学を代表するものであって、絶対主義や王権神授説と対比されて、少なくともポテンシャルとしては近代の自由民主主義を正当化する理論だと受け止められている点です。特にドラテが強調するのは、自然法学派の社会契約説によって、抵抗権が正当化されたという点です。


受講者A: それは一般的な近代思想の発展のストーリーとも合致しそうな見方ですね。


上野: はい、そう思います。しかし、近年の政治思想史の研究では、かなり違った見通しがしめされています。

まず、絶対主義的な神授権説が伝統的な考え方で、自然法が抵抗権を基礎づける近代的で民主的な思想であるという構図は、だいぶ修正が迫られていると思います。

詳しくは立ち入れませんが、抵抗権思想についていえば、たとえばイエズス会のようなカトリック正統派の「反動」的政治思想において大きく発展を遂げたということが指摘されています。フランス革命以降のメガネをいったん外して見れば、初期近代で重要な政治的対立軸となっていたのはカトリックという普遍教会の権威(教皇権)とそれぞれの君主政国家の主権(王権)とのあいだの対立であって、「王権vs人民」のような対立図式は必ずしも中心的なものではなかったという点を踏まえると、ある意味自然なことです。つまり、王権による一定の中央集権化が進んできて国家主権の考え方が台頭してくるわけですが、この主張に対してカトリック教会や教皇の普遍的権威を主張する際には、後者の権威と神の法の優越性を盾として、個々の国家が定めた実定法がこれに反するならばそれに従う必要はない、むしろ究極的にはこれに反旗を翻して抵抗するのがキリスト教徒としての権利にして義務である、といった議論が自然と出てくるわけです。神の定めやキリストの代理人である教皇の命に反する国家からの指令には「臣民」の資格において服従するのではなく、むしろ抵抗しなければならない、と。逆に、王権神授説のほうはローマ教会や教皇を媒介しなくても国王は神から直接に世俗世界の統治権を付与されているのだ、というロジックですから、教会の普遍的支配から個々の主権国家を道徳的に解放してその自律性を高める方向に作用したとみることもできます。この意味では、王権神授説は中世的な政治イデオロギーであるどころか、近代的な政治体制を正当化しようとするイデオロギーであったとさえ考えることができます。

これに対して「自然法学」のほうですが、これはたしかに社会契約という考え方にもとづいて抵抗権を原理的には認める場合もありますが、はたして抵抗権の教説がどこまで自然法学の中心的で不可欠な教義であったかとなると、疑問符が付きます。最近では、あのロックでさえ、当人の政治思想にとって抵抗権の占める位置はだいぶ周縁的なものであって、むしろ後世のロック主義者たちがロックの政治思想の急進的な含意を強調して取り出したのだという理解が出現しています。


受講者A: それはかなり意外な解釈ですね。自然法が、自由で民主的な考え方に思える抵抗権と必ずしも真っ先に結びつくわけではない、ということになると。


上野: こういった近年の傾向と、ローゼンブラットのルソー論を接続して理解することができると思います。ルソーはグロティウスやビュルラマキの自然法学を最大の論敵としてターゲットにしつつ、自らの人民主権論や社会契約論を構築したというのが、ローゼンブラットの文脈主義的な読解です。これは、ロックが家父長権論や王権神授説を論敵としながら、自らの自然法思想・社会契約論を作り上げたのとは文脈がだいぶ異なるという話にもなります。

ドラテは自然法学派とルソーの対立は相当に割り引いて考えるべきだという立場なのに対して、ローゼンブラットはルソーの自然法学派批判をあらためて真剣に受け止めるべきだ、という立場だといえるでしょう。その理由となるのは、既存の反共和主義的な政治体制(寡頭政あるいは専制的君主政)を正当化する政治的イデオロギーとして機能していたものこそ、自然法学であったという判断です。つまるところ、たとえばロックの場合とは異なって、ルソーが自らの共和主義思想ないし人民主権論を唱える上で最大の仮想敵となったのは、つまり不当な寡頭政や専制支配を支える思想的なバックにあると考えていたのは、神授権説というよりもあるタイプの自然法学であった、ということです。


受講者A: それも意外ですね。共和主義や民主主義といえば、当然のこととして、旧体制の絶対王政との対抗関係のなかで思想的に発展してきたんだと考えていました。しかし、それぞれのコンテクストによって、共和主義がいったい何に対して主張されたのかは異なってくる、という話になりますね。


上野: はい、そうなんです。ルソーの場合、その共和主義が第一義的にどのような立場との対抗関係のなかで打ち出されたのかというと、それはカトリック政治思想でもなければ王権神授説でもなく、むしろプロテスタント自然法学による寡頭政・君主政擁護の理論に対抗して構築されてきたのだ。この「文脈」をまともに受け取るべきだ。それがドラテと比較した場合の、ローゼンブラットの解釈の特色ということになると思います。


受講者A: なるほど。そうなると、翻って「献辞」におけるルソーの主張と自然法学との関係も、少し見えてくるような感じがします。こちらについても、もう少しかみ砕いて解説していただけますか。


上野: はい、この角度から献辞にアプローチすると、『社会契約論』へとつながっていく文脈も浮き彫りになってくるように思うので、ローゼンブラットや一部ブリューノ・ベルナルディの解釈に即してみていきたいと思います。〔・・・〕


【以下省略】

 

上野大樹(うえの・ひろき)
一橋大学社会学研究科研究員。思想史家。京都大学大学院人間・ 環境学研究科博士後期課程修了。京都大学博士。 日本学術振興会特別研究員DC、同特別研究員PD等を経て現職。 一橋大学立正大学慶應義塾大学にて非常勤講師。 最近の論文に、"Does Adam Smith's moral theory truly stand against Humean utilitarianism?" (KIT Scientific Publishing, 2020), "The French and English models of sociability in the Scottish Enlightenment" (Editions Le Manuscrit, 2020).

 

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