みんなで読む哲学入門

Ph.Dが講師の市民講座(上野ゼミ)

ゼミ中に紹介した参考文献: ルソー『人間不平等起源論』その一【事典項目】

文責: 上野大樹

 

ジャン=ジャック・ルソーの『人間不平等起源論』を輪読した2021年1-3月の市民ゼミでは、自然状態における人間(自然人)と社会状態・政治状態における人間(文明人)のあいだにルソーがどのような質的差異をみているのかが一つ大きな論点となりました。その際に、ルソーのいう存在(être)と外観(paraître)の分離にともなって人間の欲望の構造がどのように変容するのかを理解する手がかりとして、ルネ・ジラールの議論に言及しました。一言でいえば、欲望の本質は「他者の欲望を欲望する」という模倣の構造にある、という議論です。

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一般に人間が「文化」的存在であることの根源には、生物としての単なる生理的欲求を超えたものを欲し、また創り出そうとするという特性があると言われることがあります。「美食(gourmandise / gourmetグルメ / gastronomie) はその典型です。動物として必要な栄養摂取をはるかに超えて、人間は(あるいは文明人は)食を文化として追究するのです。それは、食卓を取り囲むさまざまなテーブルウェア・調度品や社交文化を含み、「ユネスコ無形文化遺産」としてのフランス料理(フランスの美食術)や日本食和食)が生み出されもしたわけですが、同時に近年SDGs等に関連して問題となっている「水・食料クライシスNHKスペシャル「2030 未来への分岐点(2)——飽食の悪夢」を参照)も人間のそうした「強欲」な特性と切っても切れない関係にあるとも言えそうです。

(※ もう一つ美食文化をめぐって重要なのは「社交」という論点です。本格的な研究書としては、フランス語版が「アントニー・ロレ記念食文化史学術出版賞」を受賞した橋本周子『美食家の誕生』(名古屋大学出版会、2014年)があります。人間は他の霊長類のように集団で狩猟をするという手段的な社会性のみならず、社会的な交わりそれ自体を自己目的的に愉しむ、という「共食」の文化も見出すことができる。この点に人間の種差的特徴を見出す人類学的研究にもとづきながら、「社会」学的視点から議論を深めた著作として、大澤真幸『動物的/人間的――社会性の起源』(弘文堂、2012年)に講座では言及しました。同書の続編は、ウェブ上の『現代ビジネス』で連載されています。なお、こうした外的目的をもたない純粋形式としての「社交」をモデルに社会学を構築しようとした思想家として、オルグジンメルはたいへん重要な人物です。)

 

なぜ、動物としてフィジカルに必要な食料をはるかに超えてモノを欲し消費しようとするのか?(そして「ムダ」なモノを生産してしまうのか?) 近年のグローバルな課題にも直結するこうした問いを考える上でも、いわば原理的に「足るを知らない」構造となってしまっている文明社会の欲望の性格に対して理解を深めることは、本質的かつアクチュアルということができます。

さらにこの問題は、前回のゼミで輪読したアダム・スミス道徳感情論』での模倣・競争概念にも大きく関わってきます。日本では、野原慎司さんとの対談でも扱う内田義彦の『経済学の生誕』以来「スミスとルソー」という問題設定が盛んに論じられてきましたが、近年では欧米の思想史研究でももっともホットなトピックとなっており、上記の必要/欲望の区別という観点からも両者の文明社会ヴィジョンの関係が論じられるようになってきています。ルソーとスミスのあいだの綿密な比較からは、ルソー第二論文の素朴な文明批判が、(資源の最適配分に加え)所得分配におけるパレート改善の場として市場メカニズムを描き出したスミス『国富論』によって乗り越えられたのだ、といった単純なストーリーで両者の関係を理解することができないことは明らかです。『道徳感情論』を精読すれば、スミスが実際にはルソー的な問題構成に対して内在的な視点から取り組んでいたことが容易に読み取れるのです。

 

以下では、講座中にも紹介した講師執筆の事典項目の一部を抜粋で引用しておきます。『現代社会学事典』(大澤真幸・吉見俊哉・鷲田清一・見田宗介編、弘文堂、2012年)に所収の項目です。各項目の最後には関連項目の参照指示もあるので、それを芋づる式にたどっていくことで、自分なりの知の連想ネットワークを構築していくことができます。ぜひ図書館などで同書を手に取って、知のネットワーキングを楽しんでください。

 

 

ジラールGirard, René 1923-)
「フランス出身の米国の文芸批評家・人類学者。フロイト、S. のオイディプス仮説批判から模倣欲望論と供犠論を展開した。欲望は具体的対象物ではなく他者の欲望に対する欲望であるとし(欲望の三角形)、それゆえ主体とモデルは互いの分身として相互に欲望を模倣し合う。モデルによる主体と対象の媒介が内的である場合、同一の対象を主体とモデルとで争奪しあい、それがエスカレートした結果相互的な感染による暴力の蔓延に行き着くが(ヘーゲル、G. W. F. のいう承認をめぐる闘争)、解体の危機に直面した共同体は生贄を選びそのスケープゴートに集合暴力を向けることで、内部の緊張を放逐し結束を実現する。ジラールは近代小説やギリシャ悲劇の分析から始めてこの機制をあらゆる社会に認めるが、他方で神話が迫害しつつ聖化していた供犠の犠牲者の無実と受難を意識的に描いた点で、原罪を強調するキリスト教の聖書的伝統がもつ固有性をも主張している」(上野大樹ジラール」、682-3頁)。

 

模倣

「・・・近代においては、たとえばルソー, J.-J.は社会状態に先立つ人間の本性のうちに社交性を認めず、種々の動物の能力を模倣することで自らの本能の欠落を補うことのできる「自己完成能力」に他の動物との種差を認め、同時に文明化した人間については、その演劇批判のなかで模倣芸術の作為性を批判するプラトンにも通じる議論を展開した。・・・その後、20世紀後半に入って構造-機能主義に批判が向けられ、上位規範を与件として一方向的な役割取得を語るのではなく、ミクロな相互作用の動的な力学に焦点を当てる意味学派が登場すると、模倣現象を掬い取りうるような社会学的態度も復興を見ることになる(その先駆は日常的な相互行為の場面に演技性を読み取ったゴフマン, E. である)」(上野大樹「模倣」、1265-6頁)。

 

全体意志/一般意志

「・・・ルソーにとって社会契約は原理上統治(統治契約ではない)に先立つ結合契約にほかならず、それを通じてはじめて一般意志をもった精神的人格(法人)としての国家が形成されると論じた。・・・ただし、しばしば誤解されるように個別意志が抑圧されて一般意志が実現されるわけではなく、反対に一般性を施行した多数の個別意志間の差異や対立だけが一般意志を明らかにするのであり、理想的な状態において個別意志や全体意志は一般意志と重なり合う・・・」(上野大樹「全体意志/一般意志」、806-7頁)。

 

関連項目: 「欲望」(大澤真幸)、「欲望の三角形」(亀山佳明)、「スケープゴート」(小池靖)。