みんなで読む哲学入門

Ph.Dが講師の市民講座(上野ゼミ)

上野大樹講師より2022年度の振り返りと学習のご案内

 「みんなで読む哲学入門」講師の上野です。

 二点ほどお知らせがあります。


 一つ目ですが、私が長尾伸一氏・小田部胤久氏・逸見龍生氏・武田将明氏と共編者をつとめた『啓蒙思想の百科事典』が、2月、丸善出版より公刊されました。分厚い事典であり、内容や形式面でも、また昨今の厳しい専門書籍の出版事情などもあり、なかなか個人でお買い求めいただくには厳しい価格設定となっていますが、少しでもご興味を持たれた方はお住まいの近くの公立図書館などで、ぜひリクエストしていただけましたら幸いです。

 

日本18世紀学会 啓蒙思想の百科事典編集委員会
『啓蒙思想の百科事典』丸善出版

啓蒙思想の百科事典』丸善出版


 二点目。定期的な読書会はしばし休会させていただいていますが、そのあいだにも、ネットの世界にはたいへん有益な素材が溢れているので、そちらを使ってぜひ自学自習を進めてください。今回は2022年度冬期の『フーコー・コレクション5』読書会の議論で話題となったテーマに関わる無料の動画を、YouTubeチャンネル「哲学の劇場」から、いくつかご紹介したいと思います。「哲学の劇場」は、山本貴光さんと吉川浩満さんが主宰されているチャンネルで、たいへんためになるコンテンツが満載です。

 

〈哲学と、生活世界・実践活動・非哲学〉

 哲学には、日常生活から超越した難解な理屈をこねくり回すというイメージがつきまといます。実際に啓蒙思想の一部は、哲学の対象をアプリオリな超越論的領野に限定し、観想的生(理論)は活動的生(実践)からは厳密に切り離されるべきだと主張します。
 それに対して、アダム・スミス道徳感情論』では、そうした哲学的理性ではなく、日常的な人びとの行動の観察にもとづいてモラルサイコロジーとしての哲学を構築しようとする試みを見てきました。20世紀のフーコーも、今回扱ったテクストで主題化されていたように、晩年は「自己の技法」や「生存の美学」と呼ばれる問題群にフォーカスし、哲学的関心と実践的・実用的関心とを截然と切り離さない視点を採用します。これは敢えて言えば、哲学をあらためて実用化・通俗化する試みであり、「哲学」と「自己啓発」の境界を再び曖昧化する試みです。
 こうした哲学・思想の捉え方は、哲学の「門前」という吉川さんのアプローチにも一脈通じるものがあると思います。それは文体にもいえて、エッセイ・随筆というスタイルを採用すること自体が、エッセイストとなったヒュームにも見られるように、行為遂行的な意味をもっています。

#121 活動報告/『哲学の門前』『モヤモヤの日々』『私たちはAIを信頼できるか』『自由に生きるための知性とはなにか』『絶版本』「文学のエコロジ...

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 「対話篇」というのも、そうした「会話による哲学」の一つのモデルでしょう。「哲学の劇場」での山本さんと吉川さんのやり取りがまさにそうです。お二人の最近の書籍では、『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。』があります。

新刊 『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。』(筑摩書房)刊行記念 

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 アダム・スミスフーコーも、実践的・実用的な哲学(ある種のポピュラー哲学)という問題を考えるにあたって、古代哲学、特にストア派の哲学に着目しています。エピクテトスはその代表格です。
 18世紀の啓蒙思想、20世紀北米の(カウンターカルチャー周辺の)自己啓発ムーブメントにくわえて、現代の認知行動療法も、ストア哲学と深い関係にあると指摘されています。また、認知行動療法自己啓発も、「習慣」形成がキーワードだと思います。この習慣は、古代を代表する哲学者、アリストテレスの「徳倫理学」で重視されてきた概念です。現代では、脳科学認知科学、あるいは行動科学・行動経済学の成果が重要になってきています。そのあたり、以下の動画でもお話しされています。

人文的、あまりに人文的#116 注目の新刊/『認知行動療法の哲学』『たくさんのふしぎ』『性と芸術』『オデュッセイア』『データ管理は私たちを幸福に...

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#142 注目の新刊/『人新世の人間の条件』『習慣と脳の科学』『技術哲学講義』『科学で宗教が解明できるか』『フッサールの遺稿』『Gold』ほか

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 自己啓発、あるいは通俗哲学や実用的人間学の役割は、近代日本では、インテリ層の「教養」並んで勤労層の「修養」によって担われたという指摘も、以下で紹介されています。これは、2022年9月のみん哲オンライン研究会で、池田成一先生のお話のなかでも登場してきました。

#123 注目の新刊/『顔を聞き、声を見る』『「修養」の日本近代』『羊皮紙の世界』『初めて書籍を作った男』『文にあたる』『民間説話 普及版』『本...

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 哲学の場としての大学は、起源としてはある種の市井の「読書会」コミュニティのようなものだった。それが近代になって制度化され、上述のような市民社会からの乖離が生じたという見方もあります。

#135 哲劇のあいうえお 「大学」の回

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 最後に、現在市井でこうした場を提供してくれているイベントの紹介を貼っておきます。「非哲学」あるいは「非哲学者」の観点からの哲学へのアプローチにより、ものを考える=本を読むことのかなり実用的なトレーニングを受けられます。吉川さん、そして前回のみん哲読書会でレジュメを担当してくださった酒井泰斗さんが講師です。じつは私自身も参加しており、「非哲学者のための哲学読書会」の効用を日々実感している身です。

#139 活動報告/酒井泰斗+吉川浩満「非哲学者による非哲学者のための(非)哲学の講義&哲学入門読書会」のご案内

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上野大樹

『歴史同人アンソロ 18世紀FAN!』のおしらせ

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『18世紀FAN!』書影

 欧州を中心に18世紀に関心を寄せる18人によるアンソロジー同人誌『18世紀FAN!』が発行されました。(主催:紺野さん @konno17xx ) 。

 テーマは「18世紀ヨーロッパのニッチな魅力」とされ、18世紀の中でもフランス革命前夜の時期に焦点があてられています。フランス革命以前の欧州のイギリス、フランスやオーストリア等各国の様々な文化、芸術、商業、王家の外交、科学、哲学、政治を題材に、当時の人物や工芸品、服飾、香り、王族の結婚、手紙、魔術、著作などが漫画やイラスト、論考や書評などさまざまな形式で表現されています。

 18世紀ヨーロッパ紹介といったガイドや、各登場人物の相関図も加えられており、18世紀に関心を持ち、初めて手に取る方にもわかりやすく、親しみやすい本です。さらに、参考文献と読書案内のページもあり、各原稿の題材についてより詳しく知りたい人にも開かれた内容になっています。

 現在、同誌は予定を超える注文が続き、再販予約中と好評を博しています。

 

 なお、この本には「みんなで読む哲学入門」事務スタッフのひつじも寄稿しました。ひつじは「みんなで読む哲学入門」2020年度の課題図書ルソー『人間不平等起源論』を主題のひとつに図書紹介を行いました。ルソーはその著作の書き方自体も注目を浴びる思想家であり、「みんなで読む哲学入門」でも論点になったルソーの「書き方」をポイントとし、当時の出版事情を関連させて原稿を作っています。

 学習で得たものをこのような形に残せる事も、とても貴重な機会です。

 また、同誌の売上の一部は、18世紀研究の支援として関連団体に寄付を予定しているそうです。18世紀研究のおかげで私達は関心の対象をより深く学ぶ事ができ、先生方に市民講座を開いていただく事も実現しています。その結実として編集制作された本の売上が、再び18世紀研究に還元されるとは、本当に素敵なアイディアです。

 18世紀にご関心を持たれたら、この機会に、それぞれの寄稿者の方々が表現される18世紀の魅力を手にとってみてはいかがですか。インターネット通販、または特定の書店で購入できます。

 

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(文責:白山羊ひつじ)

 

 

総勢18人の執筆者が1人1題18世紀のニッチな魅力を紹介する歴史同人アンソロジーです。漫画・イラストから論考・書評まで、様々な形態の原稿で18世紀の魅力をコンパクトにお届けします。

A5/本文110P/1100円

(販売サイトより)

◆booth匿名通販 7月中旬頃お届け予定

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まんだらけ 書店委託(海外発送対応あり)

order.mandarake.co.jp

 

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◆主催アカウント

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アダム・スミス『国富論』(4編7章)ゼミ参考文献 (1)

 2021年4月よりアダム・スミス国富論』の第4編7章を輪読していますが、受講者の方より参考文献に関する問い合わせをいただいたので、こちらで情報を共有します。

                             (文責: 上野大樹

peatix.com

 

 

啓蒙思想奴隷制

4編7章「植民地について」の主題は、「両インド貿易」と呼ばれるヨーロッパ諸国の国際商業の展開、特に西インド貿易≒大西洋貿易です。当然問題になるのが、アメリカ植民地問題、そして大西洋三角貿易のなかでアフリカ大陸から新大陸アメリカへと強制的に運ばれてきた黒人奴隷の問題です。今回は、啓蒙思想における奴隷制の問題について掘り下げるための文献をご紹介します。

 全般的な導入として一読してわかりやすいのは、

 

ドリンダ・ウートラム『啓蒙』(田中秀夫・逸見修二・吉岡亮(訳)、法政大学出版局、2017年)  の第6章「人びとが所有物であるとき―啓蒙における奴隷制問題」

(※ なお、近年の啓蒙研究の動向についてサーベイした拙稿 「J. G. A. ポーコックとジョナサン・イスラエル以降の啓蒙研究の諸展開 : 壽里竜『ヒュームの懐疑主義的啓蒙』に寄せて」でも、同書について言及しました。)

 

です。また文明史・歴史社会学的な観点から、生活・生存様式の史的発展と社会における女性・子ども・奴隷の境遇の変化について体系的な議論を展開したのは、スコットランド啓蒙の思想家たちで、アダム・スミスも当然その一角を担います。

 

クリストファー・ベリー『スコットランド啓蒙における商業社会の理念』(田中秀夫・林直樹・野原慎司・上野大樹・笠井高人・逸見修二・村井明彦訳、ミネルヴァ書房、2015年)、第5章「自由と商業の徳」

 

ジョン・ロバートソン『啓蒙とはなにか』(野原慎司・林直樹訳、白水社、2019年)、第3章「境遇の改善」

 

 

 ディスカッションの際に話題になったジョン・ロックの財産権論(私的所有の非規約的正当化)と奴隷制の関連については、とりわけ北アメリカ植民地および独立後のアメリカ合衆国の文脈で大きな問題です。近年の思想史関連の書籍のなかでは、以下に言及がありました。

 

デイヴィッド・アーミテイジ『思想のグローバル・ヒストリー:ホッブズから独立宣言まで』(平田雅博ほか訳、法政大学出版局、2015年) 、第6章「ジョン・ロック、カロライナ、あの『統治二論』」

 

 

 

 後半では、権利論や功利主義といった啓蒙期の奴隷制批判のロジック、理念上は奴隷制が批判され制度的には廃止されたにもかかわらず、古代ローマなどと比べてもはるかに過酷な奴隷状態がグローバル化しているという「現代の奴隷制」問題などについて、文献を紹介します。

(続く)

上野ゼミ 参考文献 2020年

 

2021年3月1日に行われた第4回『人間不平等起源論』読書会でのご質問「ビュフォンやルソーの生物学史を知りたい場合」。

上野先生から参考図書で良さそうなものとして、以下をうかがっています。

 

 

・『ナチュラリストの系譜 ─近代生物学の成立史』ちくま学芸文庫 木村陽二郎著

www.chikumashobo.co.jp

 

・『ヒトと文明 ─狩猟採集民から現代を見る』ちくま新書 尾本恵市著

www.chikumashobo.co.jp

 

 

自然史を扱った英語論文の書評(上野先生による書評)

上野大樹「Kuroki & Ando eds., The Foundations of Political Economy and Social Reformの紹介と短評(1) : 政治経済学、構造改革、公共圏」(2019年)。

取り上げた論文: 

Sayaka Oki, "Œ/Économie and science in France during the age of social reform (1760-1790): agronomy, natural history and political arithmetic"

 (隠岐さや香「社会改革の時代(1760-1790)のフランスにおけるエコノミーと科学――農学、自然史、政治算術」)

リンク先のPDFが当該の論文です。

ゼミ中に紹介した参考文献: ルソー『人間不平等起源論』その一【事典項目】

文責: 上野大樹

 

ジャン=ジャック・ルソーの『人間不平等起源論』を輪読した2021年1-3月の市民ゼミでは、自然状態における人間(自然人)と社会状態・政治状態における人間(文明人)のあいだにルソーがどのような質的差異をみているのかが一つ大きな論点となりました。その際に、ルソーのいう存在(être)と外観(paraître)の分離にともなって人間の欲望の構造がどのように変容するのかを理解する手がかりとして、ルネ・ジラールの議論に言及しました。一言でいえば、欲望の本質は「他者の欲望を欲望する」という模倣の構造にある、という議論です。

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一般に人間が「文化」的存在であることの根源には、生物としての単なる生理的欲求を超えたものを欲し、また創り出そうとするという特性があると言われることがあります。「美食(gourmandise / gourmetグルメ / gastronomie) はその典型です。動物として必要な栄養摂取をはるかに超えて、人間は(あるいは文明人は)食を文化として追究するのです。それは、食卓を取り囲むさまざまなテーブルウェア・調度品や社交文化を含み、「ユネスコ無形文化遺産」としてのフランス料理(フランスの美食術)や日本食和食)が生み出されもしたわけですが、同時に近年SDGs等に関連して問題となっている「水・食料クライシスNHKスペシャル「2030 未来への分岐点(2)——飽食の悪夢」を参照)も人間のそうした「強欲」な特性と切っても切れない関係にあるとも言えそうです。

(※ もう一つ美食文化をめぐって重要なのは「社交」という論点です。本格的な研究書としては、フランス語版が「アントニー・ロレ記念食文化史学術出版賞」を受賞した橋本周子『美食家の誕生』(名古屋大学出版会、2014年)があります。人間は他の霊長類のように集団で狩猟をするという手段的な社会性のみならず、社会的な交わりそれ自体を自己目的的に愉しむ、という「共食」の文化も見出すことができる。この点に人間の種差的特徴を見出す人類学的研究にもとづきながら、「社会」学的視点から議論を深めた著作として、大澤真幸『動物的/人間的――社会性の起源』(弘文堂、2012年)に講座では言及しました。同書の続編は、ウェブ上の『現代ビジネス』で連載されています。なお、こうした外的目的をもたない純粋形式としての「社交」をモデルに社会学を構築しようとした思想家として、オルグジンメルはたいへん重要な人物です。)

 

なぜ、動物としてフィジカルに必要な食料をはるかに超えてモノを欲し消費しようとするのか?(そして「ムダ」なモノを生産してしまうのか?) 近年のグローバルな課題にも直結するこうした問いを考える上でも、いわば原理的に「足るを知らない」構造となってしまっている文明社会の欲望の性格に対して理解を深めることは、本質的かつアクチュアルということができます。

さらにこの問題は、前回のゼミで輪読したアダム・スミス道徳感情論』での模倣・競争概念にも大きく関わってきます。日本では、野原慎司さんとの対談でも扱う内田義彦の『経済学の生誕』以来「スミスとルソー」という問題設定が盛んに論じられてきましたが、近年では欧米の思想史研究でももっともホットなトピックとなっており、上記の必要/欲望の区別という観点からも両者の文明社会ヴィジョンの関係が論じられるようになってきています。ルソーとスミスのあいだの綿密な比較からは、ルソー第二論文の素朴な文明批判が、(資源の最適配分に加え)所得分配におけるパレート改善の場として市場メカニズムを描き出したスミス『国富論』によって乗り越えられたのだ、といった単純なストーリーで両者の関係を理解することができないことは明らかです。『道徳感情論』を精読すれば、スミスが実際にはルソー的な問題構成に対して内在的な視点から取り組んでいたことが容易に読み取れるのです。

 

以下では、講座中にも紹介した講師執筆の事典項目の一部を抜粋で引用しておきます。『現代社会学事典』(大澤真幸・吉見俊哉・鷲田清一・見田宗介編、弘文堂、2012年)に所収の項目です。各項目の最後には関連項目の参照指示もあるので、それを芋づる式にたどっていくことで、自分なりの知の連想ネットワークを構築していくことができます。ぜひ図書館などで同書を手に取って、知のネットワーキングを楽しんでください。

 

 

ジラールGirard, René 1923-)
「フランス出身の米国の文芸批評家・人類学者。フロイト、S. のオイディプス仮説批判から模倣欲望論と供犠論を展開した。欲望は具体的対象物ではなく他者の欲望に対する欲望であるとし(欲望の三角形)、それゆえ主体とモデルは互いの分身として相互に欲望を模倣し合う。モデルによる主体と対象の媒介が内的である場合、同一の対象を主体とモデルとで争奪しあい、それがエスカレートした結果相互的な感染による暴力の蔓延に行き着くが(ヘーゲル、G. W. F. のいう承認をめぐる闘争)、解体の危機に直面した共同体は生贄を選びそのスケープゴートに集合暴力を向けることで、内部の緊張を放逐し結束を実現する。ジラールは近代小説やギリシャ悲劇の分析から始めてこの機制をあらゆる社会に認めるが、他方で神話が迫害しつつ聖化していた供犠の犠牲者の無実と受難を意識的に描いた点で、原罪を強調するキリスト教の聖書的伝統がもつ固有性をも主張している」(上野大樹ジラール」、682-3頁)。

 

模倣

「・・・近代においては、たとえばルソー, J.-J.は社会状態に先立つ人間の本性のうちに社交性を認めず、種々の動物の能力を模倣することで自らの本能の欠落を補うことのできる「自己完成能力」に他の動物との種差を認め、同時に文明化した人間については、その演劇批判のなかで模倣芸術の作為性を批判するプラトンにも通じる議論を展開した。・・・その後、20世紀後半に入って構造-機能主義に批判が向けられ、上位規範を与件として一方向的な役割取得を語るのではなく、ミクロな相互作用の動的な力学に焦点を当てる意味学派が登場すると、模倣現象を掬い取りうるような社会学的態度も復興を見ることになる(その先駆は日常的な相互行為の場面に演技性を読み取ったゴフマン, E. である)」(上野大樹「模倣」、1265-6頁)。

 

全体意志/一般意志

「・・・ルソーにとって社会契約は原理上統治(統治契約ではない)に先立つ結合契約にほかならず、それを通じてはじめて一般意志をもった精神的人格(法人)としての国家が形成されると論じた。・・・ただし、しばしば誤解されるように個別意志が抑圧されて一般意志が実現されるわけではなく、反対に一般性を施行した多数の個別意志間の差異や対立だけが一般意志を明らかにするのであり、理想的な状態において個別意志や全体意志は一般意志と重なり合う・・・」(上野大樹「全体意志/一般意志」、806-7頁)。

 

関連項目: 「欲望」(大澤真幸)、「欲望の三角形」(亀山佳明)、「スケープゴート」(小池靖)。

ルソー『人間不平等起源論』をめぐる注釈的対話:第2回

「みんなで読む哲学入門」2021年冬期は、上野大樹講師といっしょに18世紀フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)の『人間不平等起源論』を読み進めています。ゼミナールでのディスカッションを踏まえつつ、そこでの議論を発展させた講師と受講生のあいだの「対話篇」を一部のみ抜粋してお届けします。ゼミの様子の一端が垣間見れるかと思います。詳細は、ぜひ実際に講座をご受講いただき体験してください。→お申込み

 

                                文責:上野大樹

 

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ジャン=ジャック・ルソー

 

 

パラダイムは「縦」の関係

受講者A: ゼミではルソーの政治思想を理解するうえで重要なコンテクストとして、「自然法学」というものが重要だというお話が出てきました。その際に、ルソーの研究史のなかでこれまでどういった思想の系譜が重視されてきたか、従来の解釈にたいして「公民的人文主義」や「共和主義」の解釈が新しく提起されてきたといったお話もありましたが、駆け足だったので順を追って説明いただけますか?


上野大樹: 市民講座の輪読で先行研究などのマニアックな議論にあまり立ち入るのもはばかられるので、こちらで必要に応じて補足できればと思います。

まずコンテクスト主義(文脈主義)について簡単に復習しておくと、コンテクストは一つには「パラダイム」として機能しているということをみておきました。「範列的(paradigmatic)」と対になる形容詞は覚えているでしょうか。


受講者A: 「統語的(syntagmatic)」だったかと思います。


上野: はい、その通りです。文章は文から成っており、文は単語から成っているわけですが、単純化すれば、単語と単語を適切に配列して結びつけ、単語の集合としての文が“make sense”(意味を成す)な状態になるためのルール、決まりというものがあります。西洋の言語では、「てにをは」以上に「語順」が重要だというお話もしました。order / ordreは「順番」を意味すると同時に「秩序」をも意味するということでした。


受講者A: それがシンタックスの内実ということですね。


上野: はい。syntagmaticの形容詞形は厳密にはsyntagm(連辞)ですが、syntaxもほぼ同内容です。日本語にすれば、研究分野としては統語論・統辞論とか、構文論などと訳される文法の一部門です。


受講者A: 「横」のつながりをコントロールする仕組み、ということでしたよね。単語と単語がどのようにチェーン(鎖)状に繋がっていくのか、その繋げ方のルールというお話だったと思います。そうなると、パラダイムのほうは「縦」の関係、という話だったでしょうか?


上野: その通りですね。「縦」ないしは「横並び」の関係です。重要なのは、ことばを発話したり書いたりしていくときに、それ(パロール発話行為)は基本的に単語が継起していく「線形」(linear)的な「横」の流れであって、「縦」の関係は直接にはそこに現れない、という点です。そして、構造主義言語学の祖であるフェルディナンド・ソシュール記号学によれば、個々の単語はほかの単語たちとの相対的な関係によってはじめて意味が定まります。ラングは「差異のシステム」であって、シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の対応関係や、シニフィエの分節化はシニフィアンの分節化に大きく依存するという意味で、「言語の恣意性」が強調されることになります。あるパロールにおいて発話されている記号の意味内容は、そのパロールとは並行関係にあるような別の記号との相対関係において、はじめて意味が規定されてくる。

だから、単語の横の連なりであるテクストをいくらじっと眺めても、そこにパラダイムは直接に現れてはこないわけです。そこにあるテクストや単語といわばパラレル(並列)な関係にある、べつのテクストや単語の世界に目を向ける必要が出てくるのです。


受講者A: それが、縦糸と横糸の連なりのなかで意味がより明確に浮かび上がってくるというイメージなのですね。


上野: 一点、前回は触れ忘れましたが、横糸を編んでいくルール、つまり統語や構文と呼ばれるものは時間的には長期にわたって維持されるのに対して、縦糸の並びや編まれ方は統語的構造とくらべて歴史的に可変的だというのもポイントです。同一の語やテクストだったとしても、それがその背後で何と並列的に並べられているのか、そこが変わってくることで、その単語やテクストが意味する内容も変化することになるのです。

語のレベルでいえば、civil government / gouvernement civil という語句に含まれるcivilという形容詞をどう訳すか。「市民的」か「政治的」か「国家的」かetc. という話を、一例として思い出していただければと思います。構造主義言語学でいうと、範列的な選択関係 (paradigmatic relation) が背後に潜在しているなかで、実際に選択された語の意味が規定されてくる()。なので、相互に交換可能な代入関係・置き換え関係のなかでも、特に「対」になるような密接な連関語を特定することが重要になってきます。この場合、civilは「国家」との対比で「市民的」という意味になるのではなく、ecclesiastic(al)と対になって、政治的ないし国家的と訳されるべき意味をもつことになります。


言連鎖の中の一点において交換可能な諸要素の総体を「範列paradigme」という。たとえば、Le magasin est fermé. という文のmagasinに代わり得るrestaurant, musée などは範列をなす。【ロワイヤル仏和中辞典より】)


やや複雑になりましたが、言語学者バンヴェニストの言い方でまとめれば、「ディスクール=テクスト+コンテクスト」と定式化することができそうです。


参考文献】土田 知則・神郡 悦子・伊藤 直哉『現代文学理論――テクスト・読み・世界』(新曜社、1996年)。

 

パラダイムを書き換えようとするルソー

受講者A: では、そういったパラダイム=文脈として、ルソーを読む際に自然法学というものが大切だというのはどういうことでしょうか?


上野: 一つには、先行する自然法学の伝統のなかで問題とされてきたこと、つまり自然法思想において重視されてきた問いかけや命題(さらにはそれらを構成する枢要な語をどう定義するかという問題)に対するレスポンスとして、ルソーの政治的テクストを読むことができるということです。そして、それは読み手が勝手にそう解釈するというよりは、ルソー自身がかなり自覚的に、そういったテクスト群によって構成されている問いに応答する形でテクストを実際に書いている、ということを意味します。


受講者A: たしかに実際にテクストを読んでいくと、自然法学者の名前も出てきました。それに、そのことを意識しながら前後を読んでみると、もしかしたらこの記述は、この箇所では明示的には言及されていないそうした特定の思想家への応答や批判として書かれているのではないか、といったふうに読みの可能性も広がっていきました。


上野: そうなんですね。啓蒙思想を読んでいく際には多かれ少なかれあることですが、ルソーの場合に難しいのは、第一にそれが明示されていないことがしばしば見受けられるということです。ルソーがどのような広義の論争状況の中である発話行為をし、どういった問題設定にたいして応答しようとしていたのか? そのメッセージはどういった読者にたいして発せられていたのか? また著者の意図はその通りにターゲットに届いたのか、まったく想定外の反応や意図しなかった読者にメッセージが誤配されることはなかったのか? こういったことを考えるためにも、テクストの置かれたコンテクスト(文脈)を歴史的に復元するという困難な作業がこちら側に要求されてくる、そういった部分があると思います。


受講者A: その一つが自然法学ということですね。


上野: はい、そういってよいと思います。第二に難しいのは、ルソーは自らのテクストを通して応答し批判しようとするコンテクストであるパラダイム――それは一連の問いから構成されるわけですが――そのものを再構成したり改変したりしようとする傾向の強い思想家だという点です。いわば、自らのテクスト執筆という発話行為を通してコンテクスト自体に働きかけてそれを書き換えようとする、ある種の微視的なパラダイムチェンジが、ルソーの場合は同時に遂行されていると言ってよいかもしれません。
そうなると、単純に「(先行する)問い → (ルソーの)答え」という図式、さらには「伝統的な問いに対するルソーの革新的な答え」という図式にさえ収まらないことを、ルソーはやっていることになります。答えるべき「問い」それ自体を遡行的に書き換えていくという、だいぶアクロバティックにも見える言語活動を行なっているわけです。

 

『人間不平等起源論』の「献辞」と自然法学との関係

上野: 以上を踏まえて自然法学の中身にもう少し入っていきたいと思います。


受講者A: ゼミで出てきた人物としては、グロティウス、プーフェンドルフ、バルベラック、ビュルラマキといった法学者たちの名前が挙がっていました。ホッブズやロックといったビッグネームとくらべると一般には無名ですよね。ただ、グロティウスは「国際法の父」として名前は比較的よく知られているようにも思います。


上野: そうですね。最近では、プーフェンドルフとバルベラックの重要なテキストも邦訳が出て、日本語でアクセスできるようになりました。京都大学学術出版会の「近代社会思想コレクション」というシリーズに収められています。この講座では、基本は文庫本のような安価なものから輪読文献を選んでいるのでこれらを取り上げるのは少し難しいかもしれませんが、こういった地道でたいへん労力のかかる訳業の積み重ねが日本の学術の基礎体力を養っていくことにもつながるはずなので、その重要性をここで指摘しておきたいと思います。

自分で購入するには高価すぎるかもしれませんが、たとえば地域の図書館などで購入依頼をしていただいたりすれば、それを通じて日本の学問に間接的に寄与することにも繋がっていくのではないかと感じています。


受講者A: 早速やってみたいと思います。


上野: 前回、「献辞」のコンテクストと「本文」のコンテクストというお話をしました。人によって様々な感想がありましたが、最初の読後感としては本文のほうが抽象的・理論的で、歴史的な話に思える部分もどうもルソーの想像力がぶっ飛んでいて雲をつかむような話だと。それと比べると、献辞のほうが多少具体的な感じがして入りやすいという感想もありました。


受講者A: 私も似たような印象でした。講談社学術文庫の訳では、冒頭のジュネーヴ共和国への献辞は難解なので、いったん読み飛ばして本文から入ることを勧められていましたが、逆に本文のほうが観念的・抽象的で、とっつきにくいと最初は感じました。
ただ、ゼミで献辞部分に関する解説を聞いてみたら、だいぶ具体的で個別的な当時の文脈を踏まえないと献辞の内容を誤解してしまう可能性があるということが分かり、具体的だからこそかえって当時の文脈抜きで読んでいって的を外した理解になる恐れがあるなとも感じました。その意味では、本編のほうが抽象的な分、逆にそういった当時の細かなコンテクストに精通していなくても一つの普遍的な理論として読める、という感じです。


上野: あのとき話になったのは、そうしたコンテクストを見ないと献辞は下手をすれば非民主主義的なテクストにも見えてくる、ということでした。つまり、一見するとルソーは寡頭制化した共和国の支配層におもねり、逆に急進的な民主派を批判していて、民主主義の父というイメージからはだいぶ齟齬があるようにも思えてくるわけです。

 

受講者A: そのときの文脈を踏まえないとそうなってしまうわけですね。


上野: 実際には、あるべきジュネーヴ共和国の姿を描写し、そのなかでの統治者の理想形を描き出すことによって、現実の寡頭支配を強烈に皮肉っている。つまり実際のジュネーヴが本来の共和政の理想からどれだけ乖離してしまっているのかを人々に気づかせ、反共和主義的な統治エリートがジュネーヴの建国理念をいかに裏切っているか、この点を際立たせるという効果をもったわけです。こういった点は、テクストをいくらよく読んでみても直接的に書かれてはいません。コンテクストのなかでテクストを位置づけて読むことによって、はじめてその文章が当時どういった意味をもっていたのか、どんなメッセージ性を帯びていたのかが見えてくるのです。


受講者A: かつての解釈では、ジュネーヴを離れて久しいルソーが祖国の政治情勢をほとんど理解しておらず、そのせいで小評議会の統治者たちを共和政の擁護者と勘違いして賛美してしまったのだ、という見方もあったのでしたよね。これも適切なコンテクストに置いて見てみないと、その発話行為の意味や意図を適切に理解することはできない、という例として挙げられていたのだと思います。


上野: ありがとうございます。実際には、ルソーはフランスにいるあいだも断続的に祖国の情勢に関心をもって情報収集を行なっており、小評議会による寡頭支配という実態に関しては十分に精通していたと思われます。それを踏まえると、献辞の統治者に対するメッセージは、とても字義通りには受けとれない、たぶんにアイロニカルな発話行為だったとみなすべきでしょう。

もちろん、ルソーはあまりに露骨な批判を避けることによって、自らの身の安全や祖国での政治的立場が危うくならないように慎重を期してはいるわけです。スピノザやヒュームの場合と同じく、結果的にその戦術が成功したとはあまり言えませんが。


受講者A: そのお話で、ビュルラマキという自然法学者の名前にも言及されていましたね。


上野: はい。その点は、当時のジュネーヴ共和国の文脈で自然法学というものがどういう役割を果たしたのかという点にも関連してきます。この点は、あとでお話ししようと思っていたルソー政治哲学研究の金字塔、ロベール・ドラテの古典的研究にたいして、1997年にヘレナ・ローゼンブラットというコンテクスト主義の思想史研究者が新たに打ち出した重要なポイントなのですが、やや錯綜した話になるので、ドラテのルソー解釈の概要をお話してからのほうがよいかもしれません (Helena Rosenblatt, Rousseau and Geneva: From the First Discourse to the Social Contract, 1749-1762, (Cambridge: Cambiridge University Press, 1997).)。


【参考文献】河合清隆『ルソーとジュネーヴ共和国――人民主権論の成立』(名古屋大学出版会、2007年)。

 

『人間不平等起源論』の「本文」と自然法学との関係


受講者A: むしろ献辞のあとの本文を読む上で、まずは自然法学派の議論が重要な前提になってくるという話でしたでしょうか。それが『社会契約論』の立論にもつながってくるということだったかと思いますが。


上野: そう考えてもらってよいかと思います。ディスカッションの際に、教科書的には自然法学と社会契約説の流れのなかでルソーが登場してくるのに、実際にルソーを読んでみたら自然法学派にかなり批判的で、これはどういうことなのかといぶかったという感想もありました。『社会契約論』を読んでも、同じような感想を抱く人が多いのではないでしょうか。


受講者A: はい。意外なことにグロティウスに対してかなり痛烈なコメントがあったように記憶しています。そのドラテという研究者は、どういった解釈なのでしょうか?


上野: 一言でいえば、ルソーの政治思想を自然法学との関係のなかに詳細に位置づけ直して、体系的な解釈を打ち出したというのが、ドラテの大著『ルソーとその時代の政治学』の最大の貢献だと思います。やや端折ってまとめると、ある大思想家が先行思想家たちを口を極めて批判するのは、その相手が批判するに値する重要な議論を展開しているからであって、論駁するに値しないと考えればそもそも取り上げることもないだろう。ルソーの場合も、グロティウスやプーフェンドルフといった自然法学者たちの議論と正面から格闘し、それに内在的な批判を加えることによって、自らの政治哲学を鍛え上げたのだ、ということになります。


受講者A: それは言われてみればそうですね。


上野: だから、たしかにルソーは自然法学派を詳細に批判しているけれども、それは裏を返せば、自然法学派の遺産の上に自らの議論を構築したということを意味しているわけです。

さらにドラテは、いわば引いた目線で眺めてみれば、グロティウスらに対するルソーの批判はやや公平を欠いており、自らの政治哲学が自然法学派が蓄積してきた議論に多くを負っているということをより明示的に述べるべきであった、とも言っています。


受講者A: そのドラテの研究によって、自然法学の流れのなかでルソーがこれを継承し発展させた、という見方が定着していったということなのでしょうか。これに対して、近年は自然法学の伝統よりも共和主義の流れを重視してルソーの政治哲学をとらえる解釈が出現してきた、というお話になるのでしょうか。


上野: そうですね。ただ、近世共和主義やシヴィックパラダイムからのルソー解釈という流れにいくまえに、次世代のルソー研究者であるローゼンブラットの解釈というのは、ルソーと先行する自然法学者の関係をあらためて見直そうとしたものでもあった、という点を指摘しておきたいと思います。


受講者A: それはどういうことでしょうか?


上野: これも単純化していえば、ルソーの自然法学派批判をいったんまともに受け止めてみよう、という話だと理解していいかと思います。つまり、ルソーの政治思想は、先行する自然法学者の考えの単なる延長にあるのではなくて、ルソーがそれだけ批判に注力したのにはそれ相応の理由があるのではないか、という解釈です。


受講者A: ドラテはそういったルソーの批判をまともに取り合わなかった、ということなのでしょうか?


上野: いいえ。たとえばプーフェンドルフたちが重視した人間の本性的な社交性、つまり自然状態において人間はもともと社交的な存在であるという前提に対してルソーがくわえた体系的な批判の内実を、ドラテは詳細に分析しています。いくつかの点で、ルソーはプーフェンドルフらの自然法思想から大幅なテイクオフを成し遂げているという点を、ドラテは認めています。


【参考文献】ロベール・ドラテ、西嶋法友(訳)『ルソーとその時代の政治学』(九州大学出版会、1986年)。
【参考文献】ロベール・ドラテ、田中治男(訳)『ルソーの合理主義』(木鐸社、1979年)。

 

ルソー政治哲学の解釈史――ドラテからローゼンブラットへ


受講者A: では、ドラテとそのローゼンブラットの解釈のあいだの違いはどこにあるのでしょうか?


上野: 大きいと思うのは、ドラテの場合やはり自然法の理論は近代的な政治哲学を代表するものであって、絶対主義や王権神授説と対比されて、少なくともポテンシャルとしては近代の自由民主主義を正当化する理論だと受け止められている点です。特にドラテが強調するのは、自然法学派の社会契約説によって、抵抗権が正当化されたという点です。


受講者A: それは一般的な近代思想の発展のストーリーとも合致しそうな見方ですね。


上野: はい、そう思います。しかし、近年の政治思想史の研究では、かなり違った見通しがしめされています。

まず、絶対主義的な神授権説が伝統的な考え方で、自然法が抵抗権を基礎づける近代的で民主的な思想であるという構図は、だいぶ修正が迫られていると思います。

詳しくは立ち入れませんが、抵抗権思想についていえば、たとえばイエズス会のようなカトリック正統派の「反動」的政治思想において大きく発展を遂げたということが指摘されています。フランス革命以降のメガネをいったん外して見れば、初期近代で重要な政治的対立軸となっていたのはカトリックという普遍教会の権威(教皇権)とそれぞれの君主政国家の主権(王権)とのあいだの対立であって、「王権vs人民」のような対立図式は必ずしも中心的なものではなかったという点を踏まえると、ある意味自然なことです。つまり、王権による一定の中央集権化が進んできて国家主権の考え方が台頭してくるわけですが、この主張に対してカトリック教会や教皇の普遍的権威を主張する際には、後者の権威と神の法の優越性を盾として、個々の国家が定めた実定法がこれに反するならばそれに従う必要はない、むしろ究極的にはこれに反旗を翻して抵抗するのがキリスト教徒としての権利にして義務である、といった議論が自然と出てくるわけです。神の定めやキリストの代理人である教皇の命に反する国家からの指令には「臣民」の資格において服従するのではなく、むしろ抵抗しなければならない、と。逆に、王権神授説のほうはローマ教会や教皇を媒介しなくても国王は神から直接に世俗世界の統治権を付与されているのだ、というロジックですから、教会の普遍的支配から個々の主権国家を道徳的に解放してその自律性を高める方向に作用したとみることもできます。この意味では、王権神授説は中世的な政治イデオロギーであるどころか、近代的な政治体制を正当化しようとするイデオロギーであったとさえ考えることができます。

これに対して「自然法学」のほうですが、これはたしかに社会契約という考え方にもとづいて抵抗権を原理的には認める場合もありますが、はたして抵抗権の教説がどこまで自然法学の中心的で不可欠な教義であったかとなると、疑問符が付きます。最近では、あのロックでさえ、当人の政治思想にとって抵抗権の占める位置はだいぶ周縁的なものであって、むしろ後世のロック主義者たちがロックの政治思想の急進的な含意を強調して取り出したのだという理解が出現しています。


受講者A: それはかなり意外な解釈ですね。自然法が、自由で民主的な考え方に思える抵抗権と必ずしも真っ先に結びつくわけではない、ということになると。


上野: こういった近年の傾向と、ローゼンブラットのルソー論を接続して理解することができると思います。ルソーはグロティウスやビュルラマキの自然法学を最大の論敵としてターゲットにしつつ、自らの人民主権論や社会契約論を構築したというのが、ローゼンブラットの文脈主義的な読解です。これは、ロックが家父長権論や王権神授説を論敵としながら、自らの自然法思想・社会契約論を作り上げたのとは文脈がだいぶ異なるという話にもなります。

ドラテは自然法学派とルソーの対立は相当に割り引いて考えるべきだという立場なのに対して、ローゼンブラットはルソーの自然法学派批判をあらためて真剣に受け止めるべきだ、という立場だといえるでしょう。その理由となるのは、既存の反共和主義的な政治体制(寡頭政あるいは専制的君主政)を正当化する政治的イデオロギーとして機能していたものこそ、自然法学であったという判断です。つまるところ、たとえばロックの場合とは異なって、ルソーが自らの共和主義思想ないし人民主権論を唱える上で最大の仮想敵となったのは、つまり不当な寡頭政や専制支配を支える思想的なバックにあると考えていたのは、神授権説というよりもあるタイプの自然法学であった、ということです。


受講者A: それも意外ですね。共和主義や民主主義といえば、当然のこととして、旧体制の絶対王政との対抗関係のなかで思想的に発展してきたんだと考えていました。しかし、それぞれのコンテクストによって、共和主義がいったい何に対して主張されたのかは異なってくる、という話になりますね。


上野: はい、そうなんです。ルソーの場合、その共和主義が第一義的にどのような立場との対抗関係のなかで打ち出されたのかというと、それはカトリック政治思想でもなければ王権神授説でもなく、むしろプロテスタント自然法学による寡頭政・君主政擁護の理論に対抗して構築されてきたのだ。この「文脈」をまともに受け取るべきだ。それがドラテと比較した場合の、ローゼンブラットの解釈の特色ということになると思います。


受講者A: なるほど。そうなると、翻って「献辞」におけるルソーの主張と自然法学との関係も、少し見えてくるような感じがします。こちらについても、もう少しかみ砕いて解説していただけますか。


上野: はい、この角度から献辞にアプローチすると、『社会契約論』へとつながっていく文脈も浮き彫りになってくるように思うので、ローゼンブラットや一部ブリューノ・ベルナルディの解釈に即してみていきたいと思います。〔・・・〕


【以下省略】

 

上野大樹(うえの・ひろき)
一橋大学社会学研究科研究員。思想史家。京都大学大学院人間・ 環境学研究科博士後期課程修了。京都大学博士。 日本学術振興会特別研究員DC、同特別研究員PD等を経て現職。 一橋大学立正大学慶應義塾大学にて非常勤講師。 最近の論文に、"Does Adam Smith's moral theory truly stand against Humean utilitarianism?" (KIT Scientific Publishing, 2020), "The French and English models of sociability in the Scottish Enlightenment" (Editions Le Manuscrit, 2020).

 

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著者と語る 哲学オンライン対談(2): 井奥陽子『バウムガルテンの美学』をめぐって

西洋近代哲学の古典をとりあげ、上野大樹先生(政治思想史専門)と一緒に入手しやすい文庫を中心に読み進めています。
今回は上野大樹先生がオンラインで対談する一回完結のイベントになります。井奥陽子著『バウムガルテンの美学』(慶應義塾大学出版会)を題材にとりあげますが、未読の方も奮ってご参加ください


啓蒙思想と美学・芸術≫
啓蒙の世紀に本格化するヨーロッパ近代の思想は、キリスト教の神中心の世界観を相対化し、この世界あるいは宇宙における「人間」の地位を飛躍的に向上させました。他方でルネサンス以来のヒューマニズムには、自然を道具化し搾取する人間中心主義だという批判のほか、理性万能信仰との嫌疑も向けられ、18世紀啓蒙にはらまれる合理主義がその原因だと指摘されることもあります。しかし啓蒙思想は、感情・感性・情念といった、合理性には還元できない人間の諸側面に深い観察のまなざしを向けたのも事実です。
今回は「近代美学の父」について論じた『バウムガルテンの美学』の著者、井奥陽子さんをお呼びし、狭義の理性に限定されない人間の活動を総合的に論じようとするなかで「美学」=「感性の学」という学問が登場した時代について考えてみたいと思います。美学が「芸術」を対象とするのはあまりに当然にも思えますが、啓蒙以前はむしろ神の創造物たる「自然」が美の客観的モデルでした。神ならぬ(天才的な)人間による制作物である芸術作品に内在的な価値を見出す見方は、美を感じる人間の側の主観的能力やその表現形態への関心にもつながっていくでしょう。本書は哲学的視座から美学にアプローチした貴重な成果であり、美術・芸術の分野のみならず、人文科学の根幹にあるものを再考する絶好の機会を与えてくれる書物です。(上野・記)

後援:日本18世紀学会

◎日時:2020年11月16日(月) 19時〜21時
◎場所:オンライン会議アプリZoomを使用したオンラインゼミナール

 

※ 本対談の模様の一部は、国立人文研究所(KUNILABO)のnote記事として文字起こしされ、全2回にわたって公開されました。以下をご覧ください。

note.com


[講師紹介]
井奥 陽子(いおく ようこ)
2018年、東京藝術大学美術研究科博士後期課程修了。博士(美術)。
現在、東京藝術大学教育研究助手。二松學舎大学、青山学院女子短期大学日本女子大学大阪大学非常勤講師。
おもな業績に「A・G・バウムガルテンとG・F・マイアーにおける固有名とその詩的効果」『美学』70(1) 、2019年、"Rhetorik der Zeichen: A. G. Baumgartens Anwendung rhetorischer Figuren auf die bildende Kunst," Aesthetics 22, 2018など。


上野 大樹(うえの・ひろき)
一橋大学社会学研究科研究員。思想史家。京都大学大学院人間・ 環境学研究科博士後期課程修了。京都大学博士。 日本学術振興会特別研究員DC、同特別研究員PD等を経て現職。 一橋大学立正大学慶應義塾大学にて非常勤講師。 最近の論文に、"Does Adam Smith's moral theory truly stand against Humean utilitarianism?" (KIT Scientific Publishing, 2020), "The French and English models of sociability in the Scottish Enlightenment" (Editions Le Manuscrit, 2020).